上神谷だんじり祭

大阪府堺市南区にあります上神谷地区のだんじり祭を紹介しています。 毎年10月の第一日曜日に櫻井神社へ宮入を行います。 祭を通じて上神谷地区の親睦また地域の振興を図るために開設した個人のブログです。 各町会組織とは一切関係ありません。

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■国神社です。(堺市鉢ケ峯寺)
和漢三才図会の記述によると、鉢ケ峯神社(旧国神社)上神郷鉢峯にある。祭神 天照大神 縁起にいう。垂仁天皇八年に、天照大神が鳳凰に化してこの襲峯(おいそのみね)に降った。垂仁天皇の皇子が登臨して化跡を礼祭したので、神郷という。景行天皇二十四年に神託によって、武内宿禰に命じて社を営み、五十五年に神鳳を千種森に移した。今の大鳥神社がこれである。「旧事紀」にいう。大己貴尊は天羽車大鷲に乗り、妻妾を求めて節渡県(節渡は茅渟と書くのに当る。茅渟は即ち今の和泉の地である)に下向した。大陶祇の女活玉依姫を娶って妻として往来した時、人はそのことを知らずして密かに往来する間に女が懐妊した。父母は疑い怪しんで、誰が来るのか、と問うと、女は答えて、神人が装い来て、屋上から降って来られ、共に臥すだけである、と言った。そこで父母は早く正体を知りたいと思って、麻を績んで綜を作り、針で神人の短裳に掛けさせた。明朝掛けたものに随って尋ねいくと、鍵穴を抜けて節渡山にを経て吉野山に入り三諸山に留まった。それで大神であるとわかった。綜の残りを見ると、ただ三わげであったので、三輪山と名付け大三輪神社という(「泉州志」にいう。大己貴尊の降臨の地はこの山か。陶邑も近い。かつこの地を上神と名付けて加無都美和(かむつみわ)と訓むのは、大和国の三輪に対していうものか)。と書かれている。


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■法道寺です。(堺市鉢ケ峯寺)
 白鳳時代、天智天皇9年(670年)法道仙人当山に来たり飛鉢の法修せられ、その霊験の著しきにより終に輦下に達し勅願寺として開創され、もと閑谷院長福寺と称され多数の寺院を擁した大寺院であった。享保元年(1716年)徳川八代将軍吉宗公の嫡子に長福丸と名づけられてより法道寺と寺号が改められた真言宗の寺である。 承和11年(844年)慈覚大師、仁明天皇の勅を奉じて当山に参籠薬師の尊像及光背に千体の薬師仏を造刻せらる(本堂中央に安置)、又伝教大師、弘法大師も勅を受けて祈願所とされたが、のちに寺運衰え、加えて元亀、天正の乱を蒙り寺坊も減じ幕末には7坊となり現在は2ケ寺となった。
 境内には、鎌倉時代中期に建てられた食堂、室町時代初期の多宝塔があり、ともに国の重要文化財建造物にしていされている。また寺宝には鎌倉時代の十六羅漢像十六幅(土佐将監の筆)は国の重要文化財美術品にしていされている。(看板より)


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■法道寺境内にある金堂です。


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■法道寺境内にある大師堂です。


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■法道寺境内にある国の重要文化財建造物指定の食堂です。


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■法道寺境内にある国の重要文化財建造物指定の多宝塔です。


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■櫻井神社前です。(堺市片蔵)


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■国宝に指定されている割拝殿です。


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■割拝殿裏側からの撮影


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■神社内にある神輿庫です。
看板には「享保16年再建、昭和53年修理
僧形八幡神功皇后奉安神輿格納」と書かれています。


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■櫻井古跡です。(堺市片蔵)
櫻井井戸と呼ばれ、悠久の昔より櫻井神社御祭神に深い縁故を有し、古来夏祭に御神幸あり、和泉名所図絵にも登載の古跡である。常に清水湧出して枯渇することがなかったが、明治18年の大洪水により河川氾濫して埋没、大正4年に御大典記念に30年ぶり復旧、さらに平成元年妙見川拡幅、宮橋架替工事の竣工により、整備保存されたが、井戸は存在しない。(櫻井古跡前看板より)


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■小谷城郷土館です。(堺市豊田)
【小谷城址とその屋敷】小谷城は高さ約80メートルの独立した山で、13世紀中頃(鎌倉時代)に、自然のままを城として使われた、堺市内で最も古い城址の一つである。この城は、栂山城・豊田城とともに鼎城といわれ、平氏一族の小谷氏の居城であった。小谷氏の家伝によると、京都よりこの地若松荘に移り住み、地頭となって荘園を管領していた。南北朝時代には、南朝に味方して数々の戦に参加して幾多の武功をたてた。しかし、戦国時代には紀州(和歌山県)根来寺の味方をしたため、天正3年(1575年)織田信長の根来征伐の際ともに落城した。以来、郷士となって小谷城麓に住み着いて、現在まで約400年続いている。旧小谷城母家は高塀造(大和棟)の格式のある屋根であったが、近年その形式を残し銅板葺きとした。右手に別棟玄関(出玄関という)があり、伯太藩(現和泉市)藩主渡辺公のしばしばの来訪の際に重宝した。また、座敷は上段の間となっている。門は廃藩置県後、伯太藩屋敷の門を拝領して移築したものである。なお、屋敷内の庭は石州流(祖片桐石州)庭園である。(看板より)


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■上神谷の妙見さん感應寺です。(堺市富蔵)
妙見山感應寺と称し日蓮宗に属す。九星(生まれ歳の星)の守り神で、北極星を神格化した妙見大菩薩を祭っている。本寺の起源は寺伝によると、大化元年(645年)唐の聖僧法道仙人が、当地にて大乗法華経を誦じたときに、北極星が童子に化して姿を現した。この姿を一刀三礼の儀をもって浄刻し祠を建てここに祭ったのが起源と伝えられる。妙見堂は江戸初期の万治元年(1658年)に再建され、このことは「明暦年中泉州堺妙国寺の大檀那となり、万治元年3月16日当寺を建立す」と記された境内の錺屋藤左衛門の建立碑により明らかであり、当寺は藤左衛門が、妙国寺の世應院日俊上人を導師として開山したものである。江戸中期から妙見信仰の盛んな頃は、大阪北部の能勢妙見山・交野市の星田妙見山とともに、大阪の三大妙見山と言われ、大阪や堺だけでなく遠く和歌山や河内などから多くの信者が集まったといい、今も往時の道案内石柱が点在している。例年2月3日の節分星祭り除厄祈祷会は1300余年の歴史を誇り、8月16日は万灯供養儀式が行われる。(看板より)

上神谷地区にも11月に子ども会の伝統行事として『いのこ』が行われます。
新藁を棒状にたばね、縄で強く結わえ、亥の子槌をつくって、祝い歌を歌いながら地面を打ち、各戸をまわります。
全て周ったあとは公民館でお菓子やお駄賃を貰います。

歌ですが、若干、村によっては異なるようです。
管理人の自治会(泉田中)では、
『い~のこ~の晩に 重箱拾て~ な~か開けて見~れば 今~年の新米はいたっ~た そ~れもう一つつ~いて 帰りましょ』
てな感じです。

昔ながらに続くこの伝統行事、いつまでも残していきたいものです。
全国でもあるようです。

『ウィキペディア』より
亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る。あるいは、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る事等がある。

歴史的には、古代中国で旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説や、古代における朝廷での事件からという伝承もある。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる。

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